旧音別町の概要

ページ番号1006802  更新日 2024年4月11日

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美しい山野が清流に映える
自然に恵まれた町 おんべつ

音別町の写真

まちの姿

音別町は東経143度5分、北緯42度50分北海道東部太平洋に面し釧路支庁管内の最西南端に位置しており、東はパシクル川をもって白糠町と接し、西は直別川を境に十勝管内浦幌町に接しております。東西13.7km、南北31.1km、面積401.4kmで町の境界がミロのビーナスの胴体部分に似ていることと美しい自然環境に恵まれていることから「北のビーナス」として町づくりを進めております。

まちの由来

アイヌ語の「オ・ム・ペツ・」 川口ふさがる という意味です。

町章の由来(昭和40年8月20日制定)

オ・ンの2文字を組み合わせたもので、町の3大産業鉱業(COAL)のCを円に蔵し、オとンを以て林業を木で現し、円内は大地で農業を意味します。
オの一部とンの円形にして円満なる町民親和を、中心は鋭く天を射して限りなく前進する町勢の発展と末広がりを表現しています。

イラスト:町章

まちの花・木

町花 エゾリンドウ

写真:エゾリンドウ

町木 ナナカマド

写真:ナナカマド

キャラクター りんちゃん

イラスト:りんちゃん

気候

四季を通じて冷涼低温で梅雨はなく春から夏にかけて南東の微風にのって海霧が発生することもありますが、夏の後半から秋にかけて快晴の日が多く、台風の影響はほとんどありません。また、冬は降雪量も少なく、晴天の日が続きます。

グラフ:平均気温

グラフ:最深降雪量

位置

東端/東経144度00分33秒
西端/東経143度42分25秒
南端/北経42度50分24秒
北端/北経43度07分15秒

面積

東西 13.74km
南北 31.10km
面積 401.40km

町民憲章

1 自然を愛し、美しいまちをつくりましょう
1 力いっぱい働き、豊かなまちをつくりましょう
1 互いに助けあい、あたたかい心の通うまちをつくりましょう
1 教養を高め、知性あふれる平和な町をつくりましょう
1 きまりをまもり、次代をになう子どもが育つまちをつくりましょう

イラスト:イメージ

音別町史

音別のはじまり

音別町に人が住みついたのが、いつごろなのかは、詳しくわかっていません。
しかし、トーウンベやノトロ岬の遺跡から出土した遺物から見て、少なくとも5,000年程前の縄文中期頃から竪穴式住居を建て、人間が住み着いたことは確かです。
今から1,200年程前の擦文時代に入ると、太平洋に面した丘の上や河川の付近で、狩猟と漁業を中心とした生活を営んでいた様子がチノミ遺跡群、ノトロ遺跡群などの存在から窺い知ることができます。
そして、約700年位前のアイヌ文化期には、音別川沿いやチノミ付近に集落(コタン)を形成し、竪穴住居から平地住居へ移行を始めた形跡が見られるようになりました。
一つの時代を作り上げたアイヌ文化期も、やがて和人との接触により交易などが始まると本州からの文化に影響され、いつしか近世時代へと移り変わって行きました。

分村独立

大正4年(1915)2月7日をもって白糠郡尺別村戸長役場設置、同年4月1日、白糠村から分村、独立し、「尺別村」が誕生しました。
その後、農林業の振興をはじめ、大正7年(1918)には、尺別炭砿が開坑されたことなどによって人口が増加し、大正8年に戸長役場から村役場に昇格、大正11年(1922)には、村の中心が音別市街地区に集約されていたこともあって、「尺別村」を「音別村」に改称しました。
昭和31年(1956)には、人口が10,000人を上回り、昭和34年1月1日に町制を施行しました。

農業のはじまり

寛政12~13年(1800~1801)に屯田兵制度のさきがけと言われる八王子同心頭原半左衛門らの白糠移住に伴い、その一部が尺別番屋付近で農作物を作ったのが最初でしたが、本格的に農業に着手したのは、明治20年(1887)中村守重が音別川の河口東側の土地33ヘクタールの払下げを受け、25頭の道産馬を導入して牧場を始めたのが音別の農業の始まりです。
開拓以来、音別では穀物主体の農業が続けられていましたが、冷害や水害が多いことから、大正12年(1923)頃から酪農への転換が始まりました。

林業のはじまり

明治36年(1903)に釧路から音別まで鉄道が開通してから、にわかに資源としての木材が重要視されるようになりました。
明治末期から大正初期にかけては、国内のみならず、釧路港から外国へ向けて用材や枕木が輸出されるようになり、音別では、多くの鉄道枕木が生産されるなど、造材は盛んになって行きました。

写真:音別の農業

写真:音別の林業

商業のはじまり

明治27年(1894)頃、旧国道すじに石田久米七が木賃宿を兼ねた日用品雑貨の店をはじめたのが、音別の商業の始まりと言われています。
大正4年(1915)になると、音別で商業を営むものは52名にものぼりました。

砿業の移り変わり 炭砿のはじまり

大正7年(1918)に椎葉紀義が鉱業権を取得、同年10月に開坑したのが尺別炭砿の始まりです。
昭和3年(1928)には、尺別炭砿の将来性に着目した三菱鉱業株式会社が権利や施設を買収、雄別砿業所支坑として経営に着手し、昭和18年(1943)の出炭量は、383,700トン、従業員は、1,000人を超えていました。
太平洋戦争が激しくなった昭和19年(1944)に尺別炭砿は休坑しましたが、戦争が終わった翌21年(1946)には復坑し採炭を開始、三菱から分離独立した雄別炭砿鉄道株式会社が創立され、雄別砿業所尺別炭砿となり、その後、昭和24年(1949)には、尺別鉱業所として独立した炭砿となりました。
しかし、エネルギー政策の転換により、全国的に閉山や規模縮小の兆しが現れはじめ、尺別炭砿でも「ヤマの火を消すな」と町民一丸となって存続運動を展開してきましたが、昭和45年(1970)尺別炭砿は閉山、従業員は、全員解雇となり、開坑以来52年の歴史に幕を閉じました。
炭砿の離職者の多くは働く場を求めて音別町を離れ、昭和44年(1969)に約8,000人だった人口は、閉山により半減しました。

写真:尺別炭砿1

写真:尺別炭砿2

新生を期して企業誘致運動を展開

炭砿閉山の暗雲が立ち込める昭和44年、閉山阻止対策を進める中、最悪の事態を考慮して、工業立地への第一歩を踏み出すべく「音別町工業振興条例」を公布するとともに「音別町工業団地」の設定準備を進めました。
企業誘致は、一朝一夕に成し得るものではありませんが、町の努力が企業の理解を得る結果となり、昭和45年(1970)企業誘致第1号として、カネヤ製鋼株式会社道東工場に進出を頂いたのを始めとし、年を追うごとに株式会社大塚製薬工場釧路工場、大塚食品株式会社釧路工場、大商化工株式会社釧路工場など、次々と進出を頂き一歩一歩、工業立町への地歩を固めて行きました。
しかし、進出以来実績が実らず、閉鎖に至った企業や昭和49年に開校した大学の撤退など、企業誘致施策の難しさを物語る一面も体験したところです。

関連情報

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音別町行政センター 地域振興課 地域振興係
〒088-0192 北海道釧路市音別町中園1丁目134番地 音別町行政センター2階
電話:01547-6-2231 ファクス:01547-6-2434
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