旧阿寒町の概要

ページ番号1006801  更新日 2022年10月11日

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町名の由来

「雄阿寒岳」「雌阿寒岳」に名付けられた、アイヌ語の「アカン」(不動の意)から出たものとされています。

町章の由来

阿寒のア・力・ンを組み合わせ図案化し、輪(円形)と翼を形どったもの。輪は町民の融和と団結を表現し、翼は将来の発展雄飛を象徴しています。

イラスト:町章

概要

阿寒町は、雄大な山岳と原始林に囲まれ、神秘のマリモとタンチョウの里です。美しくそして厳しい自然と豊な温泉のまち「阿寒町」は、北海道の観光拠点として国内外にその名を高めています。
夏はカヌー・ラフティング・フイッシング。冬のスキー・スケート・スノーモービルなど。アウトドアスポーツのあとは、温泉でのんびり、自然の恩恵を満喫。
さらに、特別天然記念物の「阿寒湖のマリモ」「タンチョウ」、国指定民俗文化財「アイヌ古式舞踊」は是非ご覧下さい。

  • 阿寒町の人口:6,401人(平成17年10月1日現在)
  • 阿寒町の面積:739.25キロ平方メートル
  • 雌阿寒岳:標高1,499メートル
  • 雄阿寒岳:標高1,371メートル
  • 阿寒湖:面積12.93キロ平方メートル、周囲26キロメートル、最高深度38メートル、海抜419メートル
  • 阿寒町の花:スズラン
  • 阿寒町の木:エゾヤマザクラ

主なイベント

  • 阿寒ふるさとまつり(7月中旬)
  • まりも祭り(10月上旬)
  • イオマンテ火まつり(10月中旬~12月上旬)
  • 阿寒湖氷上フェスティバル(1月中旬~3月中旬)

特産品

  • わかさぎ佃煮
  • まりも祭ようかん
  • 木彫品
  • あっかんべぇーアイスクリーム
  • エゾシカバーガー等

阿寒町史

いつも希望を信じてたから今日がある。
阿寒・開拓の道 未来への道
炭砿とともに発展した
阿寒の歴史

8000年前から人類が居住 明治20年 阿寒町が開基

人類が住み始めて数万年以上もさかのぼる北海道で、阿寒の歴史を物語るのは至難のわざですが、先人たちの足跡をたどってみることにします。
北海道の先住民族といえばアイヌ民族を思い浮かべる方が多いと思いますが、長い歴史の中で民族の往復などにより、先住民族イコールすぐアイヌ民族と結びつけるのは短絡的です。アイヌ民族の言葉一つとってみても南北の文化が共存しており、北海道アイヌ民族は非常に複雑で、高い多様性を持った民族なのです。
阿寒町では舌辛、布伏内など全町内域から数多くの遺跡が出土していますが、下仁々志別からは今から8000~5000年前の縄文早期の土器が出土しており、そのころから先住民族が住んでいたことがわかっています。そしてこの下仁々志別からはアイヌ民族の人骨が発見されています。
アイヌ民族についての文献は文化元年(1804)、居住について掲載されており、安政5年(1858)、北海道の名づけ親となった松浦武四郎の日記にも阿寒川沿いのアイヌコタンの模様の記述があります。
日本の政権が徳川幕府から維新政府に移行された明治時代、北海道は新政府により開拓が進められ、大きな変革を遂げます。阿寒地方は舌辛村、徹別村、蘇牛村の名前がつきました。
明治20年(1887)、阿寒郡戸長役場が現在の鶴居村下雪裡に設置され、これらの地区の管轄が始まりました。阿寒町の開基元年です。

鉄道 人口増加 商工業の発展 炭砿がもたらした町の栄枯盛衰

阿寒の発展期の基礎を築いたのが炭砿です。戸長役場が設置された2年後の明治22年、道庁によってオショナイの石炭調査が行われ、鉱区が設定されました。最初に石炭が採掘されたのは明治29年。山県勇三郎氏によってでした。山県氏からの道庁への報告によると、このころの石炭の採掘量は月産120トン、従業員は16人となっています。
また同時期、雌阿寒岳の硫黄採掘も始まり、内地から和人が移住してくるなど阿寒の豊富な地下資源が町を機動させていったのです。
雄別炭礦 進発所と人車 石炭の採掘が本格的にスタートしたのは大正8年(1919)の北海炭砿鉄道株式会社の設立からでした。それまでの交通は馬車軌道しかなかったため、この輸送路の開発が重要視されていたのです。そこで同社は釧路!)雄別間の社有鉄道に着手し、大正12年1月、約2年の工事期間を費やし雄別炭砿鉄道を開通させました。同社は鉄道開通と同時に送炭を開始し、翌年雄別炭砿株式会社と社名を変更し、半世紀以上にわたって阿寒の基幹産業として時代を築いていきました。
昭和20年代の特需景気によって石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ、空前の石炭景気をもたらしました。全盛期には従業員数3,000人以上、出炭量も72万トン以上を誇りました。雄別地区と布伏内地区を合わせ1万2,000人以上の人口がいた時期もあり、全町人口の6割を占めるほどにふくらみました。
大正13年 滝口の木材流送 人口の増加にともない住宅の建設など土木・建設や、商店なども増加し、雄別炭砿直属の機械電気器具の製作販売などを行う工作所が設立されるなど、炭砿は商工業の発展にも大きく寄与しました。
しかしエネルギーの石炭から石油・電力への転換といった世界的な傾向と、国の政策の変革により昭和45年、雄別炭砿は閉山。現在、布伏内地区の人口は500人弱、雄別地区は一人も住んでおらず姿を消しました。

写真:雄別炭礦 進発所と人車

写真:大正13年 滝口の木材流送

阿寒湖畔の自然保護と観光産業の台頭

マリモでその名を知られる阿寒湖は松浦武四郎が最も早く探勝し世に知らしめました。和人が湖畔に移住し始めたのは明治26年(1893)。ヒメマスの孵化場の番人をしていたと言います。硫黄の採掘が行われるようになると多くの工員や人夫が訪れ、採掘期間が過ぎても郷里に帰らない人がいたようです。
昭和9年頃 雄阿寒岳から阿寒湖畔 明治39年、前田正名翁が阿寒湖周辺の払い下げを受け、山林業を営むかたわら、自らの土地や家を「一歩園」と称して、開拓に着手しました。多額の私費を投じ、阿寒本町舌辛から湖畔にかけて道路を開削したり、教育施設をはじめとする各施設の建設などに尽力を注ぎ、正名翁の死去後、前田家は意志を継ぎ、湖畔の美林の保全と自然保護や福祉の振興に奔走しました。
昭和10年頃 女学生の雄阿寒岳登山 今でこそ温泉地として旅館やホテルがひしめいていますが、明治のころは造材関係者とわずかな登山客を相手にした山浦旅館1軒のみでした。大正13年(1924)、マリモ国道の改修工事が完了し大正15年からは伊藤バス(現・阿寒バス)が運転を開始。昭和5年(1930)、阿寒横断道路が完成し、9年に国立公園の指定を受けたことなどにより、旅館やホテルが増え、観光客の受け入れ体制が進められていきました。
前田家三代目光子氏が土地を無償提供し、生活や進学の道を開いたことにより湖畔にアイヌ民族の集結が図られ、アイヌ部落が形成。民芸品の製作や民族舞踊、まりも祭りなどにより、観光の発展に拍車がかかりました。そして現在、観光客は年間180万人を超え町の産業を大きく支えています。

写真:昭和9年頃 雄阿寒岳から阿寒湖畔

写真:昭和10年頃 女学生の雄阿寒岳登山

町民の心が未来を創る

観光客の増加により一時期激減したマリモ、何十年ぶりという寒波により大幅に飛来数が減ったタンチョウと、阿寒の宝である自然には幾度もの危機が訪れています。しかしその度に町民は力を合わせて保護してきました。それは町民の一人ひとりの阿寒の自然を愛する心が形となって表に現われたものです。
昭和38年 マリモ祭り そしてその豊かで広大な土地や自然は、観光や酪農業という阿寒町の基軸となっているのです。21世紀に描く阿寒の姿は「のびやかな大地に心ふれあう“マリモ”と“タンチョウ”の里」です。自然を愛し護るという皆さんの一人ひとりの心が未来の阿寒町の歴史を創っていくのです。

写真:昭和38年 マリモ祭り

写真:昭和14年 チュウルイ島のマリモ観覧


写真:昭和47年まで使用 阿寒村役場

写真:雄別鉄道 阿寒駅(昭和45年まで)

阿寒町歴史年表

元禄2年
出羽の人・佐藤信景、阿寒山のふもとオセナムにて水稲試作(「土性弁」による)。
享和2年
幕史原胤敬の部下・雌阿寒硫黄の試掘(「北海道殖民状況報文」による)。
文化元年
阿寒アイヌの居住について文献にでる。
安政5年
松浦武四郎、阿寒を探険。
明治2年
釧路国阿寒郡の名称確定、阿寒郡は兵部省の直轄下に入る。
明治5年
阿寒郡、根室支庁管轄に入る。シタカラ、テシベツ、ソウシの各村名定まる。
明治8年
村名漢字に改まる。(舌辛村・徹別村。蘇牛村)
明治9年
飽別村設置。佐野孫衛門、雌阿寒硫黄を採掘。
明治12年
郡・区・町・村編成法の施行により、釧路国全部を管轄する郡役所が設置。
明治17年
阿寒郡、根室県釧路郡役所の管轄に入る。
明治18年
釧路市茂尻矢の旧土人(27戸)137人移住。(現在鶴居村下雪裡)
明治20年
阿寒郡戸長役場を雪裡に設置(戸数50余りで旧土人)。初代戸長石井佐五郎就任。武富善吉雌阿寒硫黄に採掘開始。
明治22年
田中彪オショナイに石炭砿区設定。内地人の移住始まる。
明治26年
阿寒湖に姫鱒採卵場設置。
明治28年
植民地区画行われる。アイヌ人口244人。
明治29年
山県勇三郎オショナイで石炭採掘開始。
明治30年
阿寒湖で「マリモ」発見。
明治31年
戸長役場を舌辛原野15線25番地に移設。舌辛駅逓所設置。
明治32年
徹別・飽別に居住者が増加、小部落形成。
明治33年
舌辛村舌辛川に渡船場設置。
明治34年
阿寒川での川舟運行。
明治36年
舌辛に兵頭炭砿開始。
明治37年
飽別駅逓所設置。舌辛―大楽毛間馬車軌道完成。
明治39年
釧路炭砿舌辛で創業。前田正名阿寒湖畔に入り開発に着手。
明治40年
釧路炭砿を沢口炭砿が引き継ぐ。徳島団体飽別に入植。山浦政吉、湖畔に旅館営業開始。
明治42年
静岡団体知茶布に入植。
明治43年
ルベシベ駅逓所設置。
明治44年
戸長役場焼失。
明治45年
城川竹次郎、水稲試作に成功。15線32番地に役場新庁舎新築。
大正5年
三浦繁松雌阿寒硫黄採掘開始。舌辛に営林署苗畑設置。
大正6年
岐阜団体仁々志別に入植。阿寒湖畔駅逓所設置。
大正7年
和歌山団体徹別に入植。
大正9年
北海炭砿株式会社(雄別炭砿株式会社)創業。北海道電灯株式会社(現北海道電力株式会社)
大正10年
飽別第1発電所送電開始。徹別電発所開始。マリモが天然記念物に指定。
大正12年
沢口炭砿閉山。雄別鉄道開通。2級町村制施行。第1回村議会議員選挙。
大正13年
三菱砿業北海炭砿を買収。雄別炭砿鉄道株式会社となる。釧路~舌辛間電話線架設され電信電話業務が開始。
大正14年
蘇牛発電所送電開始。阿寒国立公園期成同盟発足。
昭和2年
雄別に電灯つく。炭砿の機械化が進む。
昭和3年
阿寒湖漁業組合設定。養殖事業開始(姫鱒・虹鱒放流)。仁々志別駅逓所設置。
昭和4年
上飽別発電所送電開始。西網走湖から阿寒湖へワカサギ移植。
昭和5年
湖畔~弟子屈間42メートルの横断道路完成。
昭和8年
雄別炭砿(オショナイ)ガス爆発。
昭和9年
阿寒国立公園指定。
昭和10年
タンチョウ天然記念物に指定。
昭和11年
栄炭砿・鈴木炭砿開坑(上布伏内)。
昭和12年
鶴居村分村。村名を舌辛村から阿寒村に変更。(当時1,616戸8.05人)。パンケ沼に姫鱒を移殖。
昭和13年
雄別通洞の開通。
昭和15年
北陽炭砿開坑。1級町村制施行。
昭和16年
学制改革により国民学校となる。
昭和17年
阿寒村森林組合の設立。
昭和20年
阿寒村立健康保険診療所開設。
昭和21年
雄別炭砿三菱から分離。戦後開拓者ふえる。
昭和22年
地方自治法施行。9代目村長(初代町長)小村義馬就任。村議会議員選挙執行(公選第一回)。古潭炭砿開坑。学制改革により六・三・三制となる。新制中学校の設立。雄別中学校生徒14名阿寒湖にて遭難。阿寒村役場雄別支所設置。
昭和23年
阿寒村商工協同組合設立。
昭和24年
阿寒湖漁業協同組合設立。阿寒村社会福祉協議会発足。第1回雌阿寒岳スキー大会開催。
昭和25年
知茶布隧道完成。舌辛駅を阿寒駅に変更。マリモ愛護会設立。第1回まりも祭り開催。
昭和26年
日本特殊鉱・雌阿寒硫黄採掘開始。油谷雄別炭砿開坑(知茶布)。阿寒炭砿(知茶布)開坑。役場庁舎、16線30番地に新築移転。
昭和27年
開基65周年記念式典挙行。知茶布炭砿開坑。「タンチョウ」「マリモ」特別天然記念物に指定。教育委員会設置。町(村)歌制定。炭労の63日スト。
昭和28年
阿寒高等学校落成、道立移管。
昭和29年
天皇・皇后両陛下阿寒湖畔に御来訪。阿寒営林署設置。阿寒村立診療所新築。
昭和30年
富士見橋完成。湖畔に道立診療所設置。阿寒市街簡易水道施設完成。まりも国道2級国道指定。大黒炭砿開坑(ベルツナイ沢)。
昭和31年
湖畔にマリモ校舎完成。第1回阿寒スピードスケート選手権大会開催。
昭和32年
町制施行(開基70周年記念)。雄別鉄道にディーゼルカー運行。
昭和33年
湖畔簡易水道完成。役場阿寒湖出張所開設。皇太子殿下御来町。2代目町長太田佐市就任。3代目町長大野直栄就任。
昭和34年
雄別炭砿鉄道株式会社より雄別鉄道が分離独立。
昭和35年
岩田鉱業白水川の褐鉄鉱採掘開始。阿寒町商工会設立。町公民館新築落成。
昭和36年
阿寒町農業協同組合設立(三農協合併)。
昭和38年
雄鉄バス運行。阿寒湖スキー場第1期工事完成。
昭和39年
阿寒国立公園指定30周年記念式典挙行。
昭和40年
第1回タンチョウ祭。阿寒小学校校舎落成。阿寒町商工会館竣工。阿寒湖畔駐車場・バスターミナル完成。
昭和41年
開基80周年記念式典挙行。常陸宮御夫妻御来町。まりも国道舗装完成。湖畔福祉センター落成。
昭和43年
阿寒診療所落成。湖畔にスピードスケートリンク完成。雄別簡易水道完成。町民憲章制定。
昭和44年
湖畔に消防会館落成。阿寒中学校新築落成。
昭和45年
雄別炭砿企業ぐるみ閉山。雄別鉄道廃止。阿寒バス雄別線運行開始。然別炭砿閉山。ホテル山浦大火。阿寒市街有線放送設置。雄別小中学校閉校。布伏内出張所開設。NHK阿寒中継局開局。道道阿寒~雄別舗装完成。
昭和46年
町営バス運行開始。阿寒火葬場落成。大正乳牛育成場落成。炭砿と鉄道館落成。第1回氷上フェスティバル開催。
昭和47年
阿寒診療所病院に昇格。中央公園落成。町民センター落成。農業研修センター落成。阿寒霊園落成。
昭和48年
土地開発公社設立。役場庁舎新築落成。阿寒市街電話自動化。仁々志別住民センター落成。17線橋完成。
昭和49年
釧路西部消防組合設立。阿寒幼稚園設立。阿寒湖中学校新築落成。18線橋完成。阿寒国立公園指定40周年記念式典挙行。阿寒湖水族資料館新築落成。阿寒支署消防庁舎新築落成。4代目町長太田佐市就任。
昭和50年
第1回全国子供の自然と小鳥と鶴会議。阿寒湖畔特定環境保全公共下水道事業着手。福祉バス“しろばと”運行開始。阿寒高校新築落成。
昭和51年
バルククーラー完成。中徹別小学校新築落成。同報無線放送開始。塵芥焼却場新築落成。ユーカラ座パリ公演。双湖台ハウス新築落成。
昭和52年
阿寒町開基90周年・町制施行20周年記念式典挙行。町振興公社設立。特別養護老人ホーム「鶴の園」完成。タンチョウ視察センターオープン。西徹別小学校閉校。
昭和53年
マリモ展示観察センターオープン。マリモ幼稚園開園。釧路阿寒自転車道路開通。前田一歩園主前田光子、前町長大野直栄氏に名誉町民の称号贈る。阿寒町農業協同組合新築落成。上徹別小学校閉校。
昭和54年
阿寒幼稚園完成。富士見橋完成。国設阿寒湖畔スキー場オープン。老人憩の家新築落成。阿寒湖小学校移転新築落成。
昭和55年
阿寒町郷土資料館オープン。雄別鉄道・雄別炭砿記念碑除幕式
昭和56年
阿寒町農業者トレーニングスポーツセンター新築落成。町長太田佐市逝去。名誉町民の称号を贈る。5代目町長佐藤八夫就任。
昭和57年
布伏内工業団地造成着手。防災行政無線設置。
昭和58年
名誉町民前田光子逝去。
昭和59年
皇太子・同妃両陛下タンチョウ観察センター御来訪。阿寒国立公園指定50周年記念式典挙行。ビジターセンター新築落成。布伏内小学校校舎落成。
昭和60年
阿寒湖畔スポーツ広場開設。
昭和61年
阿寒町開基100年記念式典挙行。町花(すずらん)町木(エゾヤマザクラ)制定。姉妹都市(熊本県阿蘇郡阿蘇町)提携。特定環境保全公共下水道一部供用開始。
昭和62年
阿寒町公民館落成。町営野球場オープン。
昭和63年
町内4ヵ所で地熱調査開始。炭砿と鉄道館「雄鶴駅」オープン。日中人事文化交流阿寒町推進協議会設立。阿寒町高齢者等生きがいセンター試行発足。
平成元年
6代目町長月舘俊松就任。サークルハウス「赤いベレー」落成。ふるさと創生事業検討委員会設置。
平成2年
防災行政無線運用開始。酪農ヘルパー利用組合設立。浄水場完成。総合運動公園多目的競技場オープン。徹別地区テレビ共同受信施設完成。
平成3年
消防阿寒湖畔支署新庁舎落成。布伏内コミュニティセンター落成。皇太子殿下行啓。阿寒湖畔ネイチャーハウス完成。自然休養村パークゴルフ場完成。
平成4年
阿寒湖畔スキー場ウォッチングハウス新築。
平成5年
釧路沖地震。下徹別小学校閉校。「マリモの歌」歌碑設置。
平成6年
タンチョウの家完成。週休二日制実施。仁々志別多目的センター完成。7代目佐々木町長就任。
平成7年
定住促進条例設置。地域担当職員制度開始。住居表示開始。
平成8年
マリモ展示観察センター(トーラサンぺ)リニューアル。国際ツルセンター(グルス)新築落成。町立阿寒病院完成。本町地区公共下水道共用開始。
平成9年
保健・福祉サービス複合施設「ひだまり」完成。
平成10年
マリモ幼稚園完成。徹別多目的センター完成。
平成11年
橋南センター完成。
平成12年
阿寒小学校校舎完成。すずらん橋完成。
平成14年
8代目中島守一町長就任
平成17年
新生「釧路市」誕生。

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阿寒町行政センター 地域振興課 総務係
〒085-0292 北海道釧路市阿寒町中央1丁目4番1号 阿寒町行政センター2階
電話:0154-66-2121 ファクス:0154-66-3959
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