2-1~5 釧路の先史時代

ページ番号1002286  更新日 2022年10月19日

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2-1 東釧路貝塚

イラスト:音声ガイドマーク

貝塚のある台地は縄文時代の初めころから近世にかけて、長い間、人々が暮らし続けていたところです。
縄文時代前期の貝塚は東西120m、南北90mの範囲に、大小合わせて11のブロックに分かれて分布しています。展示している貝塚は実際に発掘した貝塚の断面をその場で固めて、そのまま剥ぎ取ってきています。
貝の層からはイルカの頭骨を放射状に並べたり、トドや飼い犬を特別に埋葬した後がみつかっており、貝塚がゴミ捨て場だけではなく、食料が手に入った時に行う儀式の場としても利用されていたことがわかります。
貝塚の分布する大地の南側には縄文人の埋葬の方法を知ることのできる数多くの墓があります。

写真:東釧路貝塚

2-2 東釧路III式土器

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東釧路貝塚で出土した土器は地層の下のほうから、東釧路I式、II式、III式、IV式、V式と名付けられました。
東釧路III式は縄文時代早期の終わり頃、北海道内に広く分布した土器です。鉢型の土器で底が平らでクの字状に張り出す特徴を持っています。
縄文時代に入って縄文の文様がもっとも発達した時で縄や紐を転がしたり、押し付けたりして文様がつけられています。

写真:東釧路III式土器

2-3 続縄文時代

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北海道の約2000年前から1300年前の時代を続縄文時代と呼びます。当時は自然の食糧に恵まれていたことや、寒冷な気候のために米作りが広まらなかったこともあり、縄文時代と同じ生活が続きました。
釧路地方ではサハリンやカムチャツカ半島、千島列島などから海の生きものを取る生活を中心とする文化の影響を受け、海岸大地に多くの集落が作られています。
この時代の後半になると河川に沿って、内陸へも生活の場を広げ、動物や魚、木の実などを取ってきて、食料にする暮らしが続きました。
この時代の終わり頃には旧石器時代から使われてきた石器は姿を消し、次第に鉄製品に変わっていきました。

写真:続縄文時代の土器

2-4 擦文時代

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北海道では約1300年前から700年前を擦文時代と呼び、現在とほぼ同じ自然環境のもと、動物や魚、木の実などを取って暮らしていました。
釧路川の河口近くから川筋に沿って、集落ができ、今も竪穴住居のあとが残されています。この時代は土器や鉄製品、機織りの技術、かまどをもつ竪穴住居など、本州文化の強い影響を受けています。
擦文土器には深鉢と高坏(たかつき)があります。擦文の名称は土器表面を整えるために木片が用いられ、すった木目あとが残されたことによります。そして、木片で文様が刻まれ、縄文時代から使われてきた、縄目の文様は姿を消します。

写真:擦文時代の土器

2-5 湖州鏡

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中国、南宋の時代に浙江(せっこう)省湖州地方で作られた鏡で市内材木町の擦文時代の竪穴住居跡から出土しました。
湖州鏡には円形、四角形などの様々な形があり、この鏡は四角形です。鏡の背面にいくつかの文字が刻まれていますが、「こしゅうしん」という文字が読み取れます。
同じような鏡は東北から近畿地方の日本海側にかけて分布しており、展示している鏡と同様の銘を持つ四角形の鏡は山形県羽黒山の出羽三山神社前にある鏡池からまとまって見つかっています。
北海道ではこれまで発掘された例がなく、たいへん貴重な出土品です。この鏡は擦文時代終わりに近い12世紀から13世紀頃のものと思われます。

写真:湖州鏡

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