【博物館】知ろう、学ぼう。釧路の近代、アイヌ文化、自然。

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*イタオマチ
アイヌの人々が用いてきた舟には、用途に応じて数種類が見られます。そのなかの一つであるイタオマチプは、アイヌ語で「板が付いている舟」という意味で、一本の木をくり抜いて作った丸木舟(チプ)を舟敷にし、両側の縁に板材を2段3段と綴じ付けて舷を高くしてあります。かつて使用されていたもので現存するものは、伝世品としては見つかっていませんが、板を綴じつけていた穴の残っている舟敷が、苫小牧や厚岸で発掘されています。
当館で所蔵・展示しているイタオマチプは、『蝦夷生計図説』という資料のなかに記録にされているウイマムチプ(交易船)の意匠をモデルに、1992年に北海道ウタリ協会釧路支部(当時)の方々によって復元製作されました。カツラ材を用い、全長7.6m・幅1.3mありますが、イタオマチプとしては小さめなサイズです。帆として取り付けた花ゴザにオリジナリティが見られます。
イタオマチプ画像
 

*釧路市立博物館
1階では広大な阿寒摩周、釧路湿原などの東北海道を代表する原生的な自然環境と沿岸の海にすむ生き物について紹介しています。釧路湿原にすむタンチョウ、イトウ、キタサンショウウオなどの生き物については精巧なはく製やジオラマ、映像を通して学べます。また、4階大型ジオラマでは、実際に釧路湿原の中にいるような写真を撮影することができます。
タンチョウドーム画像


*アイヌ生活記念館 ポンチセ
ポンチセとは、アイヌ語で「小さい家」を意味します。家族4~5名が生活できる昔のアイヌ民家、ポンチセを再現したアイヌ生活記念館。一歩踏み入れると、囲炉裏の火を囲む家族の語らいや祈りの声が聞こえるような気がします。往時を語る生活用具や衣装などが展示されており、厳しい自然と共存しながら生きてきたアイヌ民族の生活の知恵や暮らしぶりを偲ぶことができます。




*港文館

港文館は1909(明治41年)に建造された旧釧路新聞社(現北海道新聞社)社屋を復元したものです。石川啄木はこの年の1月21日釧路に着き、そして76日間記者として新聞社に籍を置いていました。社屋は、当時、東北海道唯一の煉瓦造りで、啄木が友人金田一京助宛の手紙に「小生着釧の翌日、社は今回新築の煉瓦造りの小さいけれど気持ちよき建築へ移転仕候…」と紹介されていました。この社屋は新聞事業法で北海道新聞釧路支社となり北大通に移転後、昭和40年に取り壊されました。その時残された図面をもとに、1993年(平成5年)5月31日に釧路市大町2丁目に復元されました。



*標茶町博物館 ニタイ・ト(標茶町)
アイヌ語で森と湖を意味する「ニタイ・ト」の愛称を持つ標茶町博物館。塘路湖畔に所在し明るく開放的な空間が特徴で、標茶町の歴史と自然の資料を展示した博物館です。館内はバリアフリー対応で、常設展示室内には多くの休憩用椅子も完備。ゆったりとした時間の中でくつろぎと学びの時間を提供します。



*旧塘路駅逓所(標茶町)
駅逓所は北海道独特の制度で、半官半民の宿泊施設です。塘路駅逓所は1890年(明治23年)に塘路湖畔沿いに開設され、鉄道が敷設され塘路駅が開業した翌年、1928年(昭和3年)に役割を終え廃止となりました。元々は漁業番屋として建てられた建物であり、丸太を使って小屋組みされています。現在標茶町指定文化財として保存しています。




*北海道集治監釧路分監本館(標茶町)
1885年(明治18年)、囚人の収容施設として標茶に設置。彼らはアトサヌプリ(硫黄山)での硫黄採掘や道路工事(釧路~標茶など)、釧路川の浚渫などにあたり、北海道開拓の一端を担いました。収容された囚人には、生涯何度も脱獄を繰り返したことで知られる西川寅吉や、来日したロシア皇太子に切りつけた大津事件の津田三蔵などがいます。1901年(明治34年)に廃止。残された建物は1969年(昭和44年)に塘路湖畔へ移転、標茶町郷土館として2017年(平成29年)まで利用されました。
釧路集治監
 

*アトサヌプリ(硫黄山)
アトサヌプリは1万3000年前から現在にかけて形成された活火山で、大小1500以上の噴気孔から白い噴気を上げ続けています。アトサヌプリはアイヌ語で「裸の山」の意味で、周辺一帯は標高が低いにもかかわらず高山植物のハイマツ、エゾイソツツジなどの林になっています。
火山活動では硫黄鉱床が形成され、1887~1896(明治20~29)年の安田財閥による鉱山開発は、釧路鉄道の開通や釧路港の特別輸出港指定など、近代釧路の礎を築いたともいえるでしょう。
硫黄山
 

*太田屯田兵屋(厚岸町)
太田屯田兵屋は、1890年(明治23年)に北太平洋の警備と開拓を行うため、本州から太田に入植してきた屯田兵440戸が暮らす住宅として、1889年(明治22年)1月から翌年5月にかけて標茶集治監の囚人たちによって建てられました。屯田兵に支給された兵屋は、17.5坪(約58平方m)の木造平屋建で、土間及び6畳と4畳半の2部屋、居間、台所、押入、便所からなっています。居間には炉が設けられ、屋根に煙出し(排気口)がついています。この兵屋の特徴は、向かい合う建物の構造が、道路を挟んで対称になる『裏返し型』といわれる建て方で、一方の兵屋の入口が道路から遠くなる不都合を解消することが考えられており、道内でも数ヶ所しか例がありません。この兵屋は1904年(明治37年)の屯田兵制度廃止後も住宅として使用されていましたが、1971年(昭和46年)に復元し、同年町に寄贈されたもので、当時と同じ場所に残っていることや屯田兵の生活を知る上で貴重な建造物となっています。



*太田屯田開拓記念館(厚岸町)
1991年(平成3年)5月に太田屯田兵の入植100年を記念して開館しました。屯田兵制度の移り変わり、最後の士族屯田の村などをテーマに展示しています。展示している「太田屯田兵遺品」は、1890年(明治23年)に山形県をはじめ8県下から太田に入植した屯田兵(最後の士族屯田)に政府から支給された軍服や家具、開拓に必要な道具及び郷里から持ち込んだ家宝や生活用具、古文書などが含まれています。屯田兵には、移住した時に支給される官給品のほかに、給料と食料が3年間支給されましたが、その後は、ソバ、ヒエ、大根、豆などを作って自給自足の生活を送らなければなりませんでした。しかし、悪条件下の土地や気候の中で離村者が相次ぎ、さらに1904・1905年(明治37・38年)の日露戦争で多くの死傷者を出し、当初2,159人いた人口も明治末期には1,000人足らずになりました。移住の際の荷物には、家宝の刀や鎧など高価なものがありましたが、苦しい生活のために売り払う人も多かったので、当時の生活を知る貴重な資料として保存されています。

 

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