2-11~14 釧路の近世・近代2(くらし・戦争ほか)

2-11 刺し子

この刺し子は「どんざ」と呼ばれ、漁業で使われた仕事着です。北海道では明治から大正時代にかけてさかんに使われました。仕事で動きやすいようにと丈が膝くらいまでで、袖口も細くなっています。
寒風や潮風を防ぎ、丈夫でなければならないので紺無地や絣(かすり)の木綿地を2、3枚重ねたり、布と布の間に綿を入れたりしてつくられています。
冬の間、これら仕事着をつくることは、翌年の漁に備える漁師の妻の大事な仕事でした。

刺し子

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2-12 看板

白ペンキと金ぱくが施されたこの看板は、米などの穀物や日用品などを扱う佐々木米太郎(ささきよねたろう)商店に掲げられていました。
当時、広島県尾道市にあった醸造元から贈られたもので、店が「清酢(せいす)」という酢の特約店であることがわかります。
店主の佐々木米太郎は標茶から移転してきて洲崎町、現在の大町で開業。釧路米穀雑貨商組合の組合長を務める一方で、市議会議員、議長も歴任し、政財界の有力者として活躍しました。
なお1915年(大正4年)に店に隣り合って建てられた土蔵が、市民の有志によって再生され残されています。

看板

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2-13 幣舞橋橋桁の弾痕

終戦となる1ヶ月前の1945年(昭和20年)7月14、15日の2日間、北海道各地はアメリカ軍による空襲を受けました。
釧路では計8回の攻撃を受け、主要な工場や学校、漁船、鉄道などが標的にされました。まちの中心部が激しく攻撃されたのは、市民の戦う気持ちをなくすためだと言われています。
まちが受けた被害では、室蘭、根室に次いで釧路は大きな被害を受けました。死者192名のうち、6割が空襲による火災が原因で亡くなりました。
展示している資料は、釧路川にかかる幣舞橋が攻撃を受けた際に弾丸が貫通した跡です。厚さ10数mmの鉄板にいくつもの穴があいており、無残な姿を残しています。
また、当館の入口横に展示している親柱(おやばしら)もこの時に倒壊し、川底から引き揚げられたものです。

幣舞橋橋桁の弾痕

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2-14 焼玉エンジン

1913年(大正2年)8月、大しけの釧路沖で海難事故が発生しました。これを機会に、動力のついていない船から焼玉エンジンと呼ばれる動力のついた船が使われるようになりました。
漁場との往復が短時間となり、より広い範囲での漁が可能となりました。
価格の安い燃料が使えたこと、簡易な構造で使いやすかったことなどから、昭和20年代にかけて中・小型漁船の動力の中心として使われましたが、しだいにディーゼルエンジンにとって替わられました。
この焼玉エンジンは1952年(昭和27年)に製作されたものです。

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