2-6~10 釧路の近世・近代1(クスリ場所/明治以降の産業)

2-6 クスリ場所

北海道が蝦夷地と呼ばれた江戸時代に釧路はアイヌ語で「クスリ」と呼ばれました。その意味として「越える道」「のど元」などといった説があります。
蝦夷地に置かれた松前藩は、海岸にあるアイヌの集落・コタンを「場所」と呼び、物品の交換に便利なコタンでアイヌと交易を行いました。やがて、アイヌとの交易は商人が請け負うようになり、さらに直接漁業などの生産も行いました。
クスリ場所の請負人であった佐野孫右衛門(まごえもん)は、漁場の経営に携わりながら釧路のまちづくりにも力を尽くしました。江戸時代の釧路は漁業と交易、交通の中心でした。

クスリ場所

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2-7 霧笛

6月から7月の初夏にかけて、釧路では霧のかかる日が多くなります。視界の悪い霧の日には、沖合を運航している船舶に対してその位置を音声で知らせる霧笛が鳴り響きました。
1922年(大正11年)7月、後の昭和天皇が濃霧の釧路港を視察し、霧笛の設置を勧めたのを受け、完成しました。展示されているラッパの部分は吹鳴器(すいめいき)と呼ばれるもので、圧縮された空気がこの中に送り込まれて音が鳴りました。1972年(昭和47年)には電気による振動音に変わり、以後40年近くも釧路の港の安全を守ってきました。
しかし、船の装備が充実してきて霧笛が必要とされなくなり、2010年(平成22年)3月末で、釧路を含む全国の灯台で霧笛が廃止されました。

霧笛

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2-8 バチバチ

明治の初め、北海道には手つかずの森林がありました。1899年(明治32年)の釧路港開港、また、十勝地方や北見地方への鉄道の開通により、釧路は北海道東部の木材集積地として発展し、たくさんの木材が国内各地へ、また、外国へ輸出もされました。
切り出した丸太は雪が積もる冬に森から、鉄道の駅や川まで馬が引くそり「バチバチ」で運び出されました。そりが二つに分かれているのは、丸太の長さに合わせるためで、大きく長い丸太も効率よく運ぶことができました。

バチバチ

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2-9 友子制度

鉱山には江戸時代から、親分・子分が組となる友子と呼ばれる集団がありました。冠婚葬祭やけがなどでの助け合い、また、技術の伝承などを目的としています。
北海道の炭鉱へは東北地方の金属鉱山から移動してきた人たちによりもたらされ、明治中期から大正にかけて最も盛んでした。
友子に加わるには、まず親分に弟子入りし、そして、厳しい修業期間を経て、初めて認められます。しかし、仕事に機械が導入され、また社会保障が整えられることで、友子は姿を消してゆきます。
釧路炭田では戦後見られなくなりました。
友子免状には親分・子分、それぞれの氏名、出所地なども記録されていて、当時、どこから人々が集まってきたかを知る手掛かりとなっています。

友子制度

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2-10 川崎船

川崎船は、江戸時代後期から昭和初期まで福井県より北の日本海沿岸から北海道にかけて、漁業や物資の運搬などに広く使われました。
釧路地方では1897年(明治30年)頃、新潟県の人々によって川崎船を使った漁が行われたことをきっかけに、沿岸漁業から沖合漁業へと転換され、新たに漁場が開かれました。
展示されているこの船は現在の博物館の建設に合わせて、船大工の平岩一(ひらいわはじめ)さんが設計し製作したもので、実際の船の大きさよりはひと回りほど小さな造りとなっています。
釧路の漁業の発展に活躍した貴重な船です。

川崎船

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